このエッセイでは、珍しく(?)塾講師らしい勉強に関するお話をしましょう。
私も吹田で働く塾の先生の端くれなので、たまには勉強のためになるエッセイもかきますよ。
まず基礎から押さえておきましょう。勉強は大別すると「インプット」「アウトプット」という2種の作業があります。授業を聴いたり、参考書を読んだりする勉強が「インプット=頭に入れる作業」で言葉で説明したり問題を解いたりするのが「アウトプット=頭から出す作業」の代表格です。
日本の教育では昔からインプットに重点を置き、いや正しく言うと、「インプットしかしなかった」過程を経ています。大学や、以前の予備校の教室における授業ではまさにインプットだけ、と言っても言い過ぎではなかったのです。本も概要をくどくどと述べるばかりで拙者『妻が得する熟年離婚』(朝日新書)のように、ご丁寧に「確認問題」付のものはほとんどありませんでした。(ただし近頃の参考書にはサービスのついているものが徐々に増加してきているようですが。
日本と海外の塾の違い
このような日本の一方通行型の授業と全く異なる方法論が海外には多くあります。
その一例がハーバード大学のロースクール(法科大学院)で用いられている「ソクラテス・メソド」です。このソクラテス・メソッドを分かりやすく説明すると、前もって生徒に課題が与えられそれについて教授が生徒に質問し、さらにその生徒の解答を前提として、さらに高度な質問を別の生徒にする・・・といった具合に教授と生徒間で議論を行うことによって理解を深めていく方法です。日本におけるインプットだけの教育とソクラテス・メソッドのどちらがより良いと思われますか?少なくともある程度インプットした後はソクラテス・メソッドで理解を深める方が効果が上がることは当然のことでしょう。
外国に行かなくても、日本の大学の少人数制のゼミなどでは、類似した方法を実践している事例が多いようです。ただし一般的にはやはり日本ではまだ「インプット教育」が非常に勝っていることは相違ありません。
ここで誤解のないように申上げておきますと、「インプットへの偏り」と「詰込み学習」とは別の概念です。
「詰込み」「丸暗記」は前述のようにとても重要なものです。しかしそれだけではまだ理解が不充分でアウトプットもしなければならないということです。正しく表現すると詰込みや丸暗記の成果を上ゲ、応用力を身につけるためにアウトプットが不可欠なのです。また一言にインプットと言っても「聴く」「見る」だけでは効率が良くないこともよくあります。
つまり「アウトプットなしのインプットへの偏り」と「目と耳だけに偏るインプット」が良くないというだけで、詰込みや丸覚え自体は悪い事ではないのです。